びわこみたいに。

東京に来た。忙しさのピークは超え、疲弊して迎えた月曜日。なんだか書きたくなってこうやってマックでMacを開いている。

東京はやっぱり滋賀とは違う。いま目に見える範囲の人は。すべからくスマホを触っている。その向こうに、彼らは何を見ているのだろうか。様々な人間模様。世界情勢。日本の政治。冒険の旅。家族の笑顔。滋賀の人よりはスマホを触っている人が多い。こっちだったら空を見つめているような、ヒゲモジャのおじさんですら、スマホを触っている。

僕は人混みが苦手。今この人達にもそれぞれの人生があって、いろんなことを感じて今この瞬間を生きているって考えると、気持ち悪くなってしまう。つい人は「大学生だから」「東京住みだから」「女だから」なんだとカテゴライズをして、偏見のフィルターを通して人を見ている。
でも、人の人生ってやつはそこまで単純じゃない。僕が今見えている人たちの人生を理解しようとしたら、何日かかるだろうか。幼稚園ぐらいの恥ずかし失敗エピソードから、最近抱えている仕事に対する愚痴まで。すべてを理解しようとしたらどれぐらいの時間がかかるだろう。
人混みを見ていると、それが、つい、想像されてしまう。率直にいえば怖いのだ。

この場に存在しているだけで、ほんの少しだけ影響を与えているかもしれない。今この瞬間に、何が起こるとも限らない。その時、僕は彼らの人生を変えてしまったことに、責任が取れるのだろうか。他人だからと「しったこっちゃない」と吐き捨てることができるだろうか。たぶん難しい。

僕は鎧を着ている人にすごく敏感に反応する。移動中の人に見る人はみな、それぞれが、それぞれの鎧を着ている。重くても、息切れしそうでも、それがないと生きていけないのだと思う。たとえば僕は今すぐとなりに座っているおじさんに話しかけて、話を盛り上げることはイメージができる。しかし、隣の人はそれを受け入れてくれないと思う。「僕なんかがあなたの人生の一部を汚してしまいました。お許しください」って気持ちになる。
一方で、コミュニティ内に入ってきた人にはみんなが鎧を脱ぐ気もする。特にボードゲームカフェはそれが顕著で、知らない人同士なのに、相席をしてボードゲームを遊ぶ。僕は相席するとき「この人達はボードゲームを遊びにきてるから」と、言い訳を得て無造作に話しかけることができる。それを大抵の人は受け入れてくれ、なんだったら楽しんでくれるのだ。

僕と居る時間はほんの少しでも楽しく居てほしい。そうじゃないなら、その人の人生を邪魔したくない。そのリスクと、僕の負担を減らしたいから、僕は滋賀に住んでるのかもしれない。
東京に比べれば小さい滋賀かもしれないけど、眼の前の人のすべてを知りたい僕にとっては、滋賀ですら大きすぎるぐらいで、彦根、会社、友達、恋人。それぐらいの範囲がギリギリ一生で抱えられないぐらいの範囲。

こっちはみんなが泳いでいる。ぼくは泳ぐのは苦手だ。

びわこみたいに。風があれば波立ち、風がなければ凪いでいる。そんな人生を僕は生きたい。

この日のびわこは波立っていた。僕の心にも風が吹いた。