あえて言語化しない

最近デザインに関する本を読んでいてちょっと納得した話がありました。

私は普段から、わざと言語化しないことがあります。「ブログを書いている癖に何を言っているんだ」といわれるかもしれませんが、毎日ブログを書き続けられているのも、この”わざと言語化しない”ことで続いているのでは無いかと考えています。

なぜ”わざと言語化しない”のか。それは言語化してしまう事によって、その時の事象や感情について、その言葉以上の意味を持たせることができないからです。
なんとなくモヤモヤしている事があった時に、その答えを見つけようとして紙に整理することがあります。そうすれば確かにそのモヤモヤはすっきりしますが、すっきりしてしまうと、もう終わった事の様に感じて、考えることがなくなってしまいます。わたしにとってはそれがもったいない。私の場合は、そのモヤモヤはそのままにしておいて、できるかぎりフレームにも当てはめないようにして、そっと頭の片隅に置いておくんです。そうすると人と話している時や作品を見ている時に、そのモヤモヤがすっきりと見えるようになって、より良い学びになる瞬間があるんですよ。言語化せず、意味を固定化させないことで、レーダーの索敵範囲が広がって、そのことに気付きやすくなる効果があると思います。

言語化しないのはモヤモヤだけではありません。アイディアも同じように言語化せずに置いておく事があります。何かに使えそうなアイディアがあって、でもそれが何に使えるかはわからない時も、そのままにして置いておきます。無理して活かそうとすると、むしろ死んでしまう事がある気がしています。せっかくのアイディアなんだから、それを殺さない様に大切にしまっておく。そうすると上と同じように、ある時ふと気づく瞬間があるんです。「あ、それって前に考えたあれと同じ形をしているな」って。その時になって初めて、言語化に入るわけです。

でもその時にも注意して欲しいのは、アイディアを固定化させ無いことです。ふわっとした状態のものも、もったいないので置いておく。そうすれば、場所、人、状況など、その時々に合わせた最適化して使い回す事ができるのです。
私が人と話をするときはいつもそれを意識しています。「今の文脈からは、あの時のあれについて話ができるな。じゃあこの人に伝わる言葉で、今の私から伝えられる言葉を話そう。」と考えて話をしているのです。

言語化ってめっちゃ言いましたけど、これが私にとっての本質を見る力なのかと思います。その時々によって形を変えている様に見えるイメージも、実は本質の部分が同じだから応用できるのではないかなと。
それが傍から見れば、本質をついた行動や考え方に見えるかもしれませんね。

今日も読んでくれてありがとう!
ではまた~

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