僕は答えを言わない

最近コロナウイルスに関するニュースを見ない日は無いですね。

僕としては「常に自分が感染しているかもしれない」という前提の行動と、「でもやっぱりマスクしんどいし、ずっとつけてるのは無理」という個人的な気持ちとが毎日戦っています。

結果的三密にならない外を散歩してる時とかはゆるく、お店の中に入る時とか打ち合わせのときには必ずつけるようにするっていう自分ルールで過ごしてて、これならなんとか続けられそうです。

さて、コロナのニュースといえば、最近クラスターフェスなるものが話題になりましたね。
(分からない人はこちら https://blogos.com/article/477225/

コレ自体に対する是非は僕にはわからないですけど、コレに関して話をする機会がありました。

仮にその方をAとして、それに関する会話の様子です。

A「こんなことする人怖いな」
ぼく「そうだねー」
A「でも友達の中にはこういう人が居なくてよかった」
ぼく「そうなの?でもわからんくない?」
A「え、おったら嫌や」
ぼく「でも心のなかで何考えてるかわからんしな・・」
A「もし参加してるってわかってる人が”会いたい”って言うてきたら会うの?」
ぼく「多分会うんちゃうかな」
A「えー・・」

こんな感じの会話でした。正直相手はめっちゃ引いてたんだけど、このときに多分会うだろうなって思ってた自分の考えを観察してて面白かったので、書くことにしました。

僕は多分何に対しても、答えを出そうとしないんだと思います。特に、右か左に意見が割れやすそうな話題。フェミニズム、就職活動、コロナに関する情報、政治的なポジション、宗教に関することなどなど・・。

基本的なスタンスとして、最初になにかの情報を得た時には、その人の恣意的な意図がある前提で話を聞く。事実だけを受け取って、別の情報源も触れるようにしてます。そうすることで、立体的に物事が見える用になってきて、その時に初めてその人の考えを精査しています。

もっと言うと、多数情報を得たからといって、すぐに物事に対して断定するような答えを出したりはしないようにしています。なぜなら、自分がその場面に直面しないと、自分が何を選ぶか分からないし、本質的な理解ができないと思っています。

じゃあ例えば、クラスターフェスに参加している友達がいたとして、その人が伝えたいことに目を向けてみたら、共感することがあるかもしれません。それは、その友達に話を聞くことでしか、理解することはできないと思うし、”自分の答え”を決めてしまった事によって、その機会が失われてしまうことが、僕にとっては寂しいです。

副次的だけれど、この”答えをださない”姿勢が、僕の強さだと思います。

僕は答えを持っていないので、誰かを否定しない(できない)。否定になりうる理論(武器)を持っていないから、僕に込み入った話をしてくれる人がいる。僕に込み入った話をしてくれる人がいるから、当事者が抱えている辛さを理解することができる。当事者の辛さを知ることで、複雑な問題への理解が深まる。理解が深まることで、自分の教養が高まる。

あ、教養って言葉の意味知ってます?「知識を持っている事によって生まれる、心の余裕」って意味らしいですよ。僕はそれなりの心の余裕を持っているって自負もあるし、僕は人生でできる限りの教養を蓄えたいと思ってます。

最近それにプラスして、自分で答えを出す覚悟についても考えています。

答えを出さないのは、矢面に立たないための僕の処世術でした。でもいろんなひとに教えてもらって、それでは仕事できないし、人生は好転しないことを知りました。

だから、僕は自分を守るため、仲間を守るための決断をする練習もしています。

僕は答えを言わない。”言わない”なんていい方もカッコつけてるだけで、答えを知らないだけで、みんなに教えてほしいって思ってる。
逆に材料はたくさん持ってるから、ここぞと言う瞬間には自分の答えを出す。その2つのバランスで今日も生きていきます。